いのち

お腹の中で、ちいさい丸の中にできた心臓が動き始めてから、その喜びと同時にやってきたもの。

それは、「いつかこの世での命は終わる」という事実でした。

高齢での妊娠だったため、統計的に流産の可能性がとても高いというのもありましたが、「いつ流産になってもおかしくない」と思っていたので、健診の度に心臓が動いているのをみてはホッとしていました。

特に3ヶ月経つまでは、妊娠したという実感もあまり湧きませんでした。

無事に安定期を迎えてからも、「今日も生きているかな?」と毎日気になりました。

お腹に命が宿らなければ、そんなことを気にすることもなかったんだなあ。
命があるということは、いつかこの世での命が終わるということなんだ。

毎日のようにそんなことを感じていました。

当然のことといえば当然のことなのですが、日々を過ごしていると忘れてしまいがちです。

「目の前の人が当たり前のように明日もいる。」

無意識にそう思って過ごしていて、誰かが亡くなったという話を聞くと、「当たり前じゃないんだ」と思い出す。

そんなことのくり返しです。

でも、新しい命を授かってから、生と死のことを想うことが増えました。

私は、この子とあと何年一緒に生きられるんだろう?
もし私が先にいなくなったら、この子はどう生きていくのかな?
でも、私が先に逝くとも限らないんだ。

息子に限らず、いつ大切な人との別れがくるのかは、それこそ神のみぞ知るで、考えたところでどうしようもありません。

でも、「遅かれ早かれ別れがくるのだ」ということを受け止めた上で、今を一緒に過ごしていると、その時間がとても尊いものに感じられます。

こうして生まれてきてくれたこと、今一緒にいられることが奇跡だと感じます。

とはいえ、育児は肉体的にも精神的にも思っていた以上に大変で、毎日の生活の中で、余裕がなかったり疲れていると、息子に優しくできない日もあります。

そんな自分に落ち込むこともあります。

産後のマタニティーブルーの時には、出産前の生活に戻りたい…と子どもを産んだことを後悔したこともありました。

でも、体調も回復し、育てていくほどに息子への愛情は増し、コロナ禍でこれから世界がどうなるかわからないという状況の中でも、ほんとうに純粋で無邪気な彼の存在に救われました。

毎日、目をキラキラさせてこの世界を体験している彼を見ていると、笑顔や希望を忘れずにいられるのです。

息子が生まれるまで、ひとつの命が与えてくれる影響がこれほどまでに大きいとは思ってもいませんでした。

そして、両親にとって私自身もそんな存在だったのだと想うと、「生まれてきてよかった」と自分自身の命の尊さも受け取ることができました。

また、誰もがそんな存在であったのだと思えました。

大切な相手であるほど別れが来る時はさみしいですが、その分、その命の存在のおかげでもたらされることも大きいのだと感じます。

誰が先かはわからないけれど、いつかは去る命だからこそ、一緒に過ごせる今を大切にすることを忘れずにいたい、そう思います。

秋山友子

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